塚田 捷 氏
表面の何が見えているのか
〜計算科学が解き明かす表面の物理〜
表面科学は、1982年の走査型トンネル顕微鏡(STM)の開発によって大きく進展した。だが、原子の姿が次々と捉えられる一方で、なぜ原子像が得られるのかというメカニズム自体は明らかではなかった。「これを解明するために、表面がどのように見えるのかを、第一原理計算を用いて理論シミュレーションする方法を開発しました。シミュレーションの結果、トンネル電流が探針の試料表面に一番近い原子に集中して流れること、これがSTMの原子尺度分解能の起源であることがわかりました」。
塚田氏は1970年代から理論家として物質表面の物理現象を解明してきたが、STMの理論シミュレーションを皮切りに、走査型プローブ顕微鏡の理論にも関わることになった。「STMと共に最近重要になってきたのが、非接触原子間力顕微鏡(ncAFM)です」。ncAFMでは、共鳴振動させた探針で試料表面を走査した時に起こるわずかな振動数の変化を計測する。「数百kHzの共鳴振動数が数十Hzだけ変わるのをみるわけですから、これはものすごく精度の良い測定法なんです。1995年にはドイツや日本の研究グループが原子像を取ることに成功しました。でも、ncAFMが画像化している計測量が何なのかということは、理論研究の進展によって最近ようやく明らかになってきたんです」。探針と試料表面の間には短距離力の化学的相互作用力と長距離力のファンデルワールス力が働く。ファンデルワールス力は長距離で働くものの、原子レベルの位置変化に敏感ではない。一方、化学的相互作用力が働くのは探針と表面の距離が0.2〜0.3nmの範囲に限られるが、探針の原子レベルの位置変化に対して鋭敏に応答する。つまり、ncAFM像は、探針の移動にともなう化学的相互作用力の変化量を画像化したものといえる。化学的相互作用力は試料の表面構造だけでなく、表面と探針を構成する元素の組み合わせにも大きく影響を受けるため、元素の識別も可能になる。塚田氏の場合は第一原理計算を用いて超高真空における理論シミュレーション法を開発したのだが、ncAFMは大気中や液体中で生体分子を計測するツールとしての期待も高い。大気中や液体中は理論の立場からもチャレンジングで魅力的な問題と、塚田氏はその解明に意欲を見せる。
ncAFMと並んで、塚田氏は個々の分子の電気伝導の解明にも取り組んでいる。中でも注目しているのが、かご状の曲面を持ったカーボンナノチューブやフラーレン。「曲面を作るには、六員環の中に五員環や七員環を入れることが必要です。五員環には結合の腕が三本あって、その意味では構造に欠陥はなく完全といえます。ただ、電子が波として伝わる時に、環を一周すると波の性質が違ってしまう位相欠陥があるんです。それが波動関数にどういう影響を与えるかというのは、面白い問題ですね」。例えば、太さの違う2つの金属のカーボンナノチューブを五員環と七員環を使って繋いだ場合、チューブ間の電流の透過率はその構造のいかんに関わらず、スケーリング則によって半径比で決まることがわかった。だが、デバイスへの応用を考えると、より関心が高いのは金属・半導体接合での透過率であるため、塚田氏は現在その理論的な解明を急いでいる。さらに、塚田氏はドーナツ状に繋いだカーボンナノチューブで、ドーナツの穴に磁場を通すとコヒーレントな永久電流が流れ得ることも発見した。カーボンナノチューブが持つ特殊なバンド構造のため、ドーナツを右回りする電流と左回りする電流に磁場によってわずかなエネルギーの差が生じる。「面白いことに、この電流は外部の磁場を増幅する方向に流れます。そのため、わずかな磁界で磁化してしまいます。磁性と関係したデバイスとかに使えるんじゃないかと」。
新たな物性を予言することは、理論家なら誰しも目指すところ。だが、塚田氏には計算科学ならではの、もう1つのモチベーションがある。「現在のアプローチでは、どうしても計算できない対象というのがあるわけです。どうすれば、それを計算することができるのかを理論的に考え出す。それは、展開として非常に重要だと思います」。第一原理計算では、実験的なパラメータを一切使わず、量子力学の基礎方程式から系の中の電子状態を決定し、原子間に働く力を求めて構造や物性を導き出す。一方、モデルを使った理論解析では原子間に働く力は関数の形で与えられ、パラメータによってチューニングされる。精度では第一原理計算が優るが、膨大な計算量のため、計算機の性能が指数関数的にアップした今日でも扱える系は原子数百個が限界。それに比べ、モデルを使った理論解析では数万から数十万個の系を扱うことが可能だ。対象に適した手法を用いて、電子の状態から物質のあるべき様を組み上げる。「宇宙の問題を星の一個一個から解く人はいないですよね。銀河のように何百万の星の集団を単位として扱うでしょ。物質も多分同じで、繰り返しのユニットみたいなものがあれば、そこはひとまとめにして扱う。階層性をうまく使いながら、詳細に見るべきところは詳しい計算をする」。ただし、計算科学において求められるのは、計算のスキルだけではない。「スキルは絶対に古くなります。計算手法への興味や計算機をうまく使うといった側面はもちろん重要です。でも、それだけでは理論家として先に進むことはできません」。シミュレーションソフトの進歩により、現在ではかなりの計算が既成のソフトで行えるようになってきた。「場合によっては、計算科学はそれほど深くないんじゃないかと思われるかもしれない。でも、若い人にはそこで終わって欲しくない」。計算すべきは何か。その計算には、本当はどんな意味があるのか。それを見いだせるか否かが、真の理論家になれるかどうかを分ける。「そこをきちんとわかるためには、やはり物理全体に渡る深い考察が必要なんです」。




