画像:内部空間に有機分子が挿入されたカーボンナノチューブの構造模式図 (東北大学岩佐義宏教授らのカーボンナノチューブと有機分子の複合材料の研究から、岩佐教授の許可を得て掲載)
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Japan Nanonet Bulletin 第80号 : 2005年1月12日

ナノネットインタビュー

梶村 皓二 氏
梶村 皓二(かじむら こうじ)氏
財団法人機械振興協会 副会長、
同技術研究所 所長
 
プロフィール
1965年大阪大学基礎工学部電気工学科 卒業
1967年大阪大学大学院基礎工学研究科物理系(物性物理)修士課程修了
1968年通産省工業技術院電子技術総合研究所入所、物理部所属
その後、基礎部低温物理研究室長、同所企画室長、同所電子基礎部長、同所次長、同所所長を歴任。
この間、1972年に理学博士(東京大学)「超伝導アルミニウム薄膜の抵抗転移における超伝導揺動の研究」、1975年から1年余り米国IBM T.J.Watson 研究所客員研究員、1988年から10年間通商産業省産業科学技術研究開発「超電導材料・超伝導素子の研究開発」推進委員長、1992年から7年余り、筑波大学連携大学院教授を兼任、1993年より財団法人新世代研究所理事を務める。
1999年通商産業省工業技術院院長
2001年 現職
独立行政法人科学技術振興機構、戦略的基礎研究 (CREST)「新しい物理現象や動作原理に基づくナノデバイス・システムの創製」研究総括
機械振興協会副会長/技術研究所長 梶村 皓二 氏

ナノテクロジーの明日を見据えた研究マネジメント
〜豊かな経験を基に、新たな研究環境の構築を指揮〜

(Issued in English: July 20, 2006)

「不思議な研究者人生」――“最後の”工業技術院院長を務めた梶村皓二氏は、自らの半生をこう振り返る。一線の研究者としてスタートを切り、後半は研究マネージャーとして、国際競争力をもち、研究者の能力を最大限に発揮できる環境作りに奮闘した。多くの議論を重ね、工業技術院を再編し、傘下の15国立研究所の独立行政法人化を成し遂げたが、そこには自身の経験を通じた国の研究に対する思いがあった。

梶村氏の研究生活の始まりは超伝導現象の研究であった。温度を下げていくと電気抵抗がいきなりゼロになるという、ドラマチックな変化に魅せられた。1960年代半ばの、科学的知見を技術に活かす、という流れが見え始めた時代であったが、梶村氏の興味は超伝導を産業に応用することよりも、むしろこの現象のメカニズムを知りたいということにあった。その後、旧通産省傘下の電子技術総合研究所に入所し、低次元超伝導体中の電子の熱的揺らぎの研究を手がける。物質中の導電機構が3次元から2次元、1次元的なものなるに連れて、電子の揺らぎが大きくなるが、梶村氏は転移温度よりも10倍ほど高い温度において電気抵抗が減少することを追究した。この成果はPhysical Review Letters誌に掲載された。

30代初めには、米国IBM ワトソン研究所に留学し、フォノンエコーの研究分野を米・ノルウェーの研究者と共同で打ち立てた。帰国後は一次元有機物の超伝導の研究を行い、新しい理論に基づいた分子設計により高い転移温度の実現を目指した。有機超伝導体分子の局所的な導電性をつきとめるためにトンネル効果の測定を試みたが、測定のために切り出した超伝導体の結晶に厚さ1nm程度の絶縁性薄膜を作りつけることに苦戦した。しかし1981年に参加した国際会議で、梶村氏は、微小かつ局所的な分析を行うある研究に強く興味を惹かれた。後にノーベル賞(1986年、物理学賞)を受けるGerd Binnigによるプログラムにない目立たぬ発表だった。彼らの手法は、先端の鋭い金属探針を用い、試料との微小な距離を圧電アクチュエータによって精密に制御することで、絶縁膜を用いることなく試料の任意方向へのトンネル電流測定を可能にしていた。「会議中、測定法によっては原子像まで観察できる可能性があるのでは?と訊いたら、Binnig氏は黙ってしまい、しばらくして『あり得る』と答えました。後で聞いたのですが、この時には既に走査型トンネル顕微鏡(STM)の開発が進んでいて、原子の像を捉える寸前だったそうです」。数ヶ月後、Binnig氏らはSTMを使って金の単結晶表面の原子層の段差を観察したと発表した。「ミクロのレベル、今で言うナノサイズの構造や電子の状態を見ることが、物理、化学、生物学、ひいては精密機械、エレクトロニクスなどの技術にとって、なくてはならない時代がくる。そう確信しました」。今からおよそ25年前のことだ。

まさに自分の求めていた分析装置であるSTMを、なんとか国内で開発したい。しかし研究所内には、個々の要素技術はあってもそれをアセンブルする製造技術がなかった。そこで梶村氏は、研究所内はもちろん、精密機械メーカーや分析技術企業に声をかけた。十数社が集まって勉強を始め、1年半で層状物質NbSe2の原子の並びを映し出す国産1号機を完成させた。「原子一つ一つが見えた。日本初、世界でも3番目の快挙に、仲間たちと飲み明かしました。これから先の世界が開けたから…」。開発された技術は参加各社が独占したいものだが、ノウハウを含め全部を公開するという英断を行った。「プリミティブなレベルで独占しても良い物はできない。技術革新や新しいサイエンスにつながるまで、広めるべきです」。その後、色々なフィールドの研究者が集まったSTM研究会を(財)新世代研究所で立ち上げ、それぞれの立場から侃々諤々、その将来像を議論した。ここをルーツとして繋がりができた人々は様々なフィールドに広がり、各省庁のさまざまなナノテクノロジープロジェクトへとつながった。例えば通産省のアトムプロジェクトはボトムアップアプローチと産学官の連携を強く意識していた点で、現在のナノテクノロジーの基盤となる技術を目指したものと位置付けることが出来る。

梶村氏はこうした過程で、制約が多すぎる国の仕組みの古さ、流動的なお金の無さという壁にぶつかった。「基礎研究を進めることは、それが社会にもたらす恩恵を考えるとどうしても必要なことです。しかし研究は他の国家公務員の仕事と進め方が違う。それを同じ枠内で行っていたのでは制約も多い。それで独立行政法人化がひとつの解となるわけです」。そうして梶村氏は一方では筑波大大学院教授兼務で半導体表面研究に従事しつつ、他方、高温超伝導プロジェクトなどの研究マネージャーとして進みはじめる。「STMとか小さい原子を扱わせているのではいけないんじゃないかという考えの上司たちがいて、研究者としてそれなりに心残りもあったが、段々そっちへ進むことになりました」。1988年、800名からなる組織の研究人事、予算などの決定の実質権限を持つ企画室長を振り出しに、電子技術総合研究所長を経て、最後には工業技術院院長という、産業技術マネジメントのトップの座についた。傘下の15の国立研究所を産業技術総合研究所へ再編成し、独立行政法人化する大鉈を振るったが、これは、ナノテクノロジーやライフサイエンスへと向かう科学技術の流れを読みつつ、研究の自由度を確保するための大仕事だった。ナノテクノロジーを4本柱の一つとする第二期科学技術基本計画(2001〜05年)の下案づくりを見届け、院長を退いた。

梶村氏は自らが参加しリードしてきたグループの成果より『実際に仕事を進めた個々の人の成果と能力を大事にしたい』と言う。氏は長らく組織の長として、良いテイストの芽をかぎ分けながら、半分近くの研究には撤退も勧めてきた。その経験から、若手にはちょっと辛口に聞こえるメッセージも発する。「新しい分野に興味があればついつい広がり分散してしまう。取り掛かった問題に集中して、まず白黒はっきりさせること。自分が目標にしたものに到達できるのが一番だが、到達できない課題について自分で判断する能力を持ち、やめる時は決断してやめる。やめることは進む以上の能力が要ります」。その根底にはIBM ワトソン研究所時代に連日行われたディベートがあるという。そこでは実験結果について徹底した議論が重ねられ、梶村氏自身にも理論的裏づけが強く求められた。「研究も行政も言うべきは言ってきました。やがて下される歴史の評価も甘んじて受けますよ」。今もナノテクノロジーをライフサイエンスに活かす研究分野に情熱を注ぐ。

(聞き手:コスモピア 塚崎 朝子)

(梶村氏は、現在、科学技術振興機構(JST)の戦略的創造研究推進事業(CREST)の中でナノテクノロジー分野別バーチャルラボの研究総括としても活躍されています。この「新しい物理現象や動作原理に基づくナノデバイス・システムの創製」研究の展開や、バイオとナノの融合についてのお話を次回お伺いする予定です。)