NanotechJapan Bulletin

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Vol. 1, No. 4, 2008年4月28日発行/EU大型放射光施設 (ESRF)のアップグレード会議に参加して

NanotechJapan Bulletin Vol.1, No.4, 2008 発行

EU大型放射光施設(ESRF)のアップグレード会議に参加して --- 原子力機構 水木純一郎

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アップグレードの背景

 放射光とナノテク材料研究との相性が非常に良いことは広く知られている.「ナノテク」というキーワードが世の中に氾濫する以前から,放射光の様々な利用分野で「ナノテク」研究が展開されていた.それは放射光の高輝度性,高指向性,偏光特性,エネルギー可変性などの特長がサブマイクロ,さらにはナノサイズのビーム径を可能にし,「ナノスケール領域の構造と機能を原子レベル,電子レベルで観る」ことに適していたからである.

 世界には様々な規模の放射光施設があり,さらに建設中,建設計画中のものもいくつかある.この中で第三世代大型放射光施設[1]といわれるものは,建設の古い順に,フランス・グルノーブルのEuropean Synchrotron Radiation Facility (ESRF,1994年稼働), アメリカ・シカゴのAdvanced Photon Source (APS,1995年稼働),日本・播磨のSPring-8(1997年稼働)の3つである.この中で最古参のESRFが,この先10年,20年にわたってこの分野のリーダーであり続けるためのアップグレードを話し合う会議が,2007年10月23日にグルノーブルにあるESRFで行われた.

 ESRFはヨーロッパ18ヶ国が資金を出し合って建設,運営しているヨーロッパ連合の放射光施設だ.今回のアップグレード提案の詳細については,ドキュメントがホームページhttp://www.esrf.eu/ 上で公開されているので,ここでは内容については簡単な説明にとどめ,会議で感じたことを中心に述べてみたい.(ちなみに,このドキュメントは表紙が紫色なことからPurple Bookと呼ばれ,2巻に分かれている.この中の第2巻Conceptual Design Report(CDR)は,新しいビームラインとステーションの提案に充てられ,放射光科学者にとって大変に参考になる.)

アップグレードの目指すもの

 ヨーロッパには,ESRFのような大型施設のほかに,中型の第三世代放射光施設が,稼働,建設中を含め6基存在する.さらにドイツでは軟X線自由電子レーザ FLASH(DESY, Hamburg)が運転を開始し,硬X線自由電子レーザの建設も急ピッチで進んでいる.このため,ESRFはそれらとの差別化を意識したアップグレードを考えているようで,SPring-8が唯一の第三世代放射光施設である日本とは事情が異なる.すなわちSPring-8では軟X線やそれ以下のエネルギーの第三世代の放射光利用を希望する研究者も満足させなければならないが,ESRFでは,硬エネルギーX線(数keV以上のエネルギーを持つX線)の中でも高エネルギーのX線(例えば30keV以上のエネルギーを持つ硬X線)が生かされる研究,とりわけナノビームを利用した研究を中心にしてアップグレードを考えている.すなわち,放射光利用=ナノテクノロジー・ナノサイエンス研究という展開を考えている.また,将来の方向として,複数の測定を同時に行う技術,高空間分解能のイメージング技術,X線散乱・回折と分光の融合技術などの開発を通じて,物質・材料やプロセスの全体像を明らかにすることを重要視しているようだ.

 物質・材料の物性や機能が電子状態(基底状態,励起状態)に直接関係していることを考えると,回折・散乱による原子・結晶構造解析と分光法による電子状態測定を同時に行うことが重要であることが,おのずと理解される.現在行われている研究のほとんどでは,それぞれの計測を独立に行っている.今後の課題は,プローブしている場所(ナノ領域)の原子構造と電子状態を「その場観察」すること,さらには機能を発している状態でこうした計測を行うことだというのがESRFの考えだ.これについては,我々も全く同じことを考えており,今後の熾烈な競争が予想される.

重要テーマ・領域

上記のようなアップグレード指針のもと,ESRFでは以下の4つの重要テーマ・領域を設定している:

 1) ナノサイエンスとナノテクノロジー
 2) ポンプ-プローブ 測定と時間分解現象の科学 
 3) 極端条件における科学
 4) 構造・機能生物学とソフトマター
 5) X線イメージング

 いずれも納得のいくテーマだが,さすが基礎科学を大切にするヨーロッパだなと感じるのは,3)の極端条件下での科学,すなわち超高圧や強磁場下での新しい量子状態の発見を重要テーマの一つとしていることだ.もちろん日本でもこれらの極限環境条件下で放射光実験を行っているが,重要テーマとして掲げることはしていない.ヨーロッパと日本の科学文化の違いだろうか.

 このようなミッションの下,アップグレード ミーティングの目的は次のようなものである:

 1) ESRFのアップグレードプログラムの状況を広くユーザー団体に知らせること
 2) 将来重要となる可能性のある新しい科学や技術を検討すること
 3) 開発すべき分野・領域の優先順位を議論すること
 4) 1)~3)で行った検討結果をまとめてESRFの経営陣に提出することによって国際レベルでの提言を行うこと

 私は,上記のテーマのうち,1)の分科会の諮問委員の1人として参加し,分科会が関係する12のCDRをレビュー・評価した.評価内容の詳細は公表できないが,CDRでは触れられていない次の2点についてコメントした:

 1) ESRFには良い理論のグループがあるので,理論の立場からアップグレードに積極的に関わる必要がある
 2) 各CDRには,共通した技術開発要素,たとえば,光学素子,検出器,ビーム安定性,試料位置合わせ,および
   それらの安定性などがあるので,これらはR&Dビームラインを建設してそこで開発するのが効率的である

 これらは,日本の放射光施設のアップグレードにも重要な視点だと思われる.

“ダイナミクス”が今後のキーワード

 またCDRを検討すると,ESRFと日本がともに,「その場測定」,「複数同時測定(回折/散乱測定と分光測定の融合)」の2つの方向を目指していることが分かる.これは,別な見方をすれば 「ダイナミクス」の観測といってもよい.

 これまでの多くの研究では,構造を見てから機能や物性を議論していた.もちろん,物質科学を研究する上で構造解析はすべての出発点だが,機能や物性と構造を結びつけるためには,構造情報にもとづく理論計算による電子状態解析,あるいは分光実験による電子状態の観測が必要だ.電子状態計算には電子相関や電子に働くポテンシャルの情報が必要なので,これらが実験的に求められれば,より正確な議論ができるようになる.こうした情報を得るためには「電子をゆらす」こと,すなわちダイナミクスが重要である.

 ダイナミクスを観測する際には,実時間 (t),実空間 (r),エネルギー空間 (ω),運動量空間 (q),のどの空間の組み合わせを選んで観測したい物理量のダイナミクスを測定するのかという自由度があり,観測したい物理量や実験的な制限によって組み合わせが決まってくる.しかし,我々の生活している目に見える世界が実時間,実空間であるので,これらの空間でのダイナミクス測定がそれらの逆空間であるエネルギー空間,運動量空間で物理量を観測するよりも感覚的に理解しやすい.故に今後はt-r空間での計測が重要になるであろう.このためには,さらに高輝度,短パルスのX線が必要で,このことが光源開発の1つの方向性を決めると考えられる.

日本の状況

 先にも述べたとおり,日本には,残念ながら第三世代放射光施設がSPring-8一基しか存在しない.10年以上もの間,軟X線利用を中心とした第三世代の中型放射光施設の建設が議論されてきたが実現しなかった.ヨーロッパ各地やアメリカでは,こうした施設の建設が行われている.これらはSPring-8と同じ規模のESRFやAPSの特長を生かした研究を展開していく上でも,施設の特長をすみ分けた研究展開が可能となるという意味で重要な働き,位置づけとなるだろう.

 ナノテクノロジー・ナノサイエンス分野で世界をリードし,情報発信者となるためには,こうした国々との競争は避けて通れない.世界でも日本でも”光”に関する研究の重要性が唱えられている.SPring-8だけが第三世代の放射光施設であるというお粗末な日本の放射光環境を強化しないと,取り返しのつかない事態を招くのではないかと危惧している.

[1]第一世代放射光施設は原子核研究などの目的に利用されるシンクロトロン加速器に寄生していた施設,第二世代放射光施設は,放射光利用専用のbending magnetを中心にしたシンクロトロン加速器からなる施設,第三世代はアンジュレータなど挿入光源が中心でさらに電子ビームのエミッタンスが小さいシンクロトロン加速器からなる放射光専用施設.